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2020/06/15

シーハリアーのパイロットに訊く(その1)

元ネタの公開から、少々時間が経ってしまいましたが、Hush-Kitさんに掲載された、シーハリアーの開発からフォークランドでの実戦まで携わったパイロットへのインタビュー記事が面白かったので訳してみました。

『シャーキー』ウォード海軍中佐インタビュー。その1。 シーハリアーFRS Mk.1と空中戦について

ちなみに、この記事のインタビューイであるナイジェル『シャーキー』ウォード(シャーキー・ウォード)海軍中佐(シーハリアー開発、フォークランド紛争当時は少佐)は、シーハリアーの歴史に触れた書物では必ずといっていいほど名前が挙がる有名人です。
記事中にもある彼の著書”Sea Harrier over the Falklands” (Pen & Sword, 1992) は、フォークランドでのシーハリアーの活躍について知る際の必読書の1つに上げている書物もあります(和訳本は無し)。

それでは、以下、本文です。

「シーハリアーとフォークランドについて最も驚くべき事実の一つは、初号機が就役してから3年も経たないうちに戦争に行き、戦闘にたいして十分準備ができていたということでしょう。これ自体は、シーハリアーの世界の技術者と乗員による並外れた業績で、我々の空母部隊の強力な支援によるものです。ついでにいえば、我々はイギリスで軍務についたジェット機の中で、最高の飛行安全記録も持っていたのです」

あなたのシーハリアーの第一印象は?

この素晴らしい機体についての第一印象は、私が1976年から1979年に、国防相の海軍幕僚将校としてシーハリアーの開発、および生産を担当したときに、形成されました。この機体の主な契約者は、ブリティッシュ・エアロスペースのジョン・フォサード、フェランティのグレッグ・スチュワート、スミス・インダストリーズのアンディ・キャメロン、ダウティ、その他で構成される緊密なチームでした。全員が同じ方向に力強く向かっていました。

すでに定評のあった地上攻撃型ハリアーから改造した設計は傑作でした。そこには、高くしたコクピット、物理的に小さいにもかかわらず、優秀なモノ・パルスレーダーであるブルー・フォックス非常に信頼背の高い慣性標準航法システム(NAVHARS)と、ホットラインガンサイトを含む、非常に使い易いヘッドアップディスプレイ兵器照準システムは含まれていました。

私は、関連する武器やミサイル、コストや装備品の選択など、プロジェクトのすべての事項について、非常に大きな裁量とガバナンスを与えられていました。私が上司から唯一受けた指示は、もし私が合意されていたプロジェクトの費用よりも、500万ポンド以上を使いたいと希望する場合、彼と合意しなければならないということでした。しかし、その必要はありませんでした。コストと時間を守った史上初めての英国の戦闘機プログラムとなったのです! (トルネードとタイフーンの共同プログラムとはかけ離れてますね)

そうは言っても、セントジャイルズコートに拠点を置く国防省の調達担当役員と一緒に仕事をするのは、必ずしも簡単なことではありませんでした。
ハリアーの責任者と、シーハリアー計画担当将校のリチャード・バーン中佐AFC(*1)は、優秀な同僚で、非常に協力的でしたが、彼の部下の中には非常に気難しい頑固者もいました。
ハリアーからシーハリアーに乗り換えたときの最大の懸念事項の一つは、ひどく信頼性の低いPTR 377という無線機でした。
それは5つ以上のモジュールで構成されており、それぞれワイヤーで厳重に束ねられていましたが、コード振られず、マーキングもされていなかったので、識別不能でした。
この無線モジュールの修理はRAEファーンボローの専門家にとって悪夢であり、モジュールあたりのコストは数千ポンドで、3000個も修理待ちの状態にありました。
私は、この無線機を私の新しいシーハリアーに装着すべきではないと断固として主張しました。パイロットは、昼夜を問わず広大な海の上を一人で飛行する際には、安全に任務を遂行するために、無線通信の良さに頼っているのですから。
調達担当者との長い戦いとなりましたが、最終的には私が勝ちました。私が選んだのは米海軍の戦闘機で使用されていた無線機でした。
その無線機1台あたりの直接調達コストはわずか8,000ドルでしたが、調達幹部の官僚は、15,000ポンドまで保守にコストをかけることに成功しました。

(*1) 空軍十字章(Air Force Cross: AFC)受勲者

飛行試験集中部隊の指揮官に任命されてから、シニアテストパイロットのジョン・ファーリーの招待で家族と一緒にBAeダンスフォールドを訪れ、出荷準備中の初号機を見てきました。それはワクワクするような訪問でした。
ジョンは実に素晴らしい人でした! 彼は私の息子たちを王族のようにもてなしてくれて、新しいジェット機に乗り込んで、私たちにプライベートな飛行を見せてくれました。彼の有名な垂直離陸から、ほぼ垂直に近い上昇に移行するものです。
すでに地上攻撃用ハリアーで30時間飛んでいたにもかかわらず、感動したというより、畏敬の念を覚えました。

飛行試験部隊である700A飛行隊で新型機を飛ばすのは、実にやりがいがありました。
私たちのブルーフォックスレーダーはまだ取り付けられていませんでしたが、それが届いて運用する前にやるべきことがたくさんありました。
私たちは、非常に献身的で熱心な技術者と搭乗員に恵まれました。彼らの勤勉さは、最終的にはフォークランドへの配備と、空戦で勝利するための強固な基盤をもたらしたのです。

この勝利の鍵は、この機体を有視界範囲内での優れた空戦、または格闘戦用に開発したことでしょう。私たちは初期の頃、米空軍のアグレッサー部隊のF-5Eと、ビットブルクの最前線にいるF-15イーグル部隊に対する圧倒的なパフォーマンスで、それを証明しました。これは戦闘機の世界に警鐘を鳴らしました。私たちは、ますます勢いを増して、その勢いは続いていきました。

戦闘機での戦闘は私が人生で愛するものでしたが、私たちの小さなジャンプジェットが目立った初期の記憶は、『ペブル・ミル・アット・ワン』(*2)で、バーミンガムの中心部にあるBBCスタジオに着陸した広報活動であるのは間違いないでしょう。イギリスの国民に向けて生中継されたんですから。

(*2) “Pebble Mill at One” 1972年10月2日から1986年5月23日までBBC1で平日の13:00に生放送されていたTV番組。

私たちは最初の機体を受領したばかりで、私はその機体でほんのちょっと飛行しただけでした。

私の上司のニール・ランキンと、テッド・アンソン提督から連絡がありました。
「シャーキー、空軍はバーミンガム中心部のペブルミルのスタジオにハリアーを着陸させるように要請された。彼らは危険でヤバすぎると断ったらしい。やってみないか?」
私はジョン・ファーリーと話をしてから答えを出すと言いました。

 

ジョンのアドバイスは素晴らしいものでした。彼はすべての長所と短所、必要な安全対策を網羅して、問題はないことを教えてくれました。それでうまくいったんです。海軍のVIP、家族、友人、報道関係者、沢山の人達がスタジオの屋上に集まっていて、私はそのビルの脇の小さな畑に無事着陸しました。
私は番組の最後、生放送中に離陸するために準備をしていたので、シャンパンと軽食パーティーを逃してしまいました。でも、ロンドンのコックニーのスーパースター、 エレイン・チェイスから頬にキスしてもらいましたよ。

一番印象に残っているシーハリアーの任務は...そこで何があったのでしょうか?

コーポレート作戦(*3)は、我が陸上戦力と、艦船、潜水艦、および艦隊航空隊の固定翼、回転翼航空機のいずれにとっても、比較的短い期間でしたが、非常に激しい戦闘でした。
このとき、陸上からの防空支援はありませんでした。自宅から8000マイル離れた、零下に近い気温の南大西洋の乱れた海で、私たちは、孤立していました。
世界は、我々が成功する可能性について公然と議論していました。評論家たちは口を揃えて、20機のシーハリアージャンプジェットからなる小さな部隊では、最大200機のアルゼンチンの戦闘機と地上攻撃機から機動部隊を守ることができないと公言していました。確かに、空母戦闘群司令官の『サンディ』ウッドワード少将が、我々が勝した後に述べたように「それは非常に僅差」でした。彼の言う通りです。

(*3) OPERATION CORPORATE。イギリス軍がフォークランド紛争で使用したコードネーム(作戦名)。

私のアメリカ海兵隊の飛行士の友人は、それを最後の従来の戦争だと表現していました。彼らはおそらく正しいとおもいます。世界の他の部分から完全に孤立した二つの勢力が戦って、勝者がすべてを得るのです。

文脈から言えば、ジュリアン・トンプソンとジェレミー・ムーアに率いられた水陸両用旅団が地上にブーツを踏み込んだおかげで、苦戦を強いられた勝利を確実にしたのです。
従来の軍事常識では、侵攻する軍は、紛争地域を確保している常設軍の3〜4倍の大きさが必要だといわれています。この常識はコーポレート作戦で覆されました。
我が国の陸軍は約4,000人であったのに対し、現地にいたアルゼンチン軍は8,000人でした。陸でも空でも数では勝てませんでした。しかし、私たちは海上と海中に切り札を持っていました。イギリス海軍の最高の伝統と歴史的偉業を受け継ぎ、力を持った水上艦と潜水艦がそこにいたのです。
マイケル・クラップ提督が率いる空母戦闘群と水陸両用機動部隊を守るために、重要な中・短距離防空と活発な対潜作戦が準備されました。

それは非常にプロフェッショナルなチームワークで、それこそが英国海軍遠征機動部隊の作戦の常套手段だったのです。

航空戦に話を戻すと、限られた数の戦闘機と乗組員は、毎日24時間の熱心な戦闘への努力を、HMSインヴィンシブルとHMSハーミーズの両空母の乗組員から要求されていました。
私のパイロット達にとって、これはほとんど継続的に激しく疲労することを意味していました。それは空中でのNIMのための飛行だけでなく、外気温度が2℃で機内に暖房がない状態で、定期的にデッキの警戒態勢でコックピットに座っていたのです(それ以外は、素晴らしい地上クルーが提供してくれたマグカップのホットチョコレートをたまに飲む程度でした)。

私は、私たちの小さなジャンプジェットの中で、そのように振る舞うことが、最終的に勝利に貢献すると信じていました。航空戦での勝利は、私たちの水上艦とシーハリアーの戦闘空中哨戒の総力を結集した結果でした。ミラージュV、スカイホーク、エタンダールが継続した攻撃に対して、両者が達成した撃墜数はほぼ同数でした。しかし、シーハリアーの存在意義は二つありました。

まず一つ目が、空対空の交戦で、私たちのジャンプジェットは航空機を失うことなく25機の撃墜を達成しました。しかし、それは完全な話ではありません。

我々の評判は先行していて、アルゼンチンの戦闘機と地上攻撃機は、シーハリアーとの接触を避けるように言われていたのです。それが攻撃任務の中止を意味していたとしてもです。

我が801飛行隊は、すべての戦闘航空哨戒任務を低高度、或いは超低高度で実施しました。サン・カルロスの上陸拠点の防衛においては、それは顕著でした(ハーミーズから発進した800飛行隊は、水陸両用上陸部隊の上空2万フィートで哨戒を行いました)。
上陸拠点での低空での801回のCAP配置による圧力は、450回以上のアルゼンチン機の攻撃任務を中止させました。私は、それを戦後間もない頃、ロンドンのアルゼンチン大使館の駐在武官から直接教えてもらいました。

このCAP任務の中の一つは、間違いなく「私にとって最も印象に残っている任務」の候補に挙げられるでしょう。私の著書『フォークランド上空のシーハリアー(Sea Harrier over the Falklands)』第23章から引用させてください。

スティーブと私はペアで次の任務を遂行することになった。今は晴れた青空の下での交戦はなかったが、海峡の南側ではHMSアーデント(*4)がその日のために十分以上の行動をしていたことがわかった。アーデントは足を引き摺りながら北に向かっており、煙は間違いなく煙突以外の場所から出ていた。

この日の3回目の最終出撃のとき、またアーデントの姿を見ることになった。
この最後の『ホップ』では、私たちはサンカルロス西方上空に配備を命じられていた。我々は北東から下降し、広く浅い谷間へ向かって低空でのレーストラックパトロールを開始した。いつものように、我々は互いに横に並び、半マイルほど離れた戦闘編隊を組んで飛んでいた。レーストラックパターンの最後を旋回するとき、我々は常に互いの方を向くようにしていた。敵の戦闘機が僚機の6時方向に近付かないようにするためだ。
私がレーストラックの南端でターン中にスティーブの間を飛んでいたとき、西から丘の下の谷の奥の方に三角形の2つの物体が近づいてくるのを見つけた。彼らの動きは速くて、間違いなくミラージュか、或いはダガーだった。私は旋回から水平にして、彼らを直接指差し、フルスロットルまで出力を上げていった。

(*4) HMS Ardent (F184)。フリゲート艦。このときHMSアーデントは、サン・カルロスの飛行場へ艦砲射撃していた。『煙は間違いなく煙突以外の場所から出ていた』というのは、その砲煙のことだと思われる。

「ミラージュが2機! 俺に向かって来い、スティーブ。1マイルだ」
私の声は興奮して不明瞭になっていて、スティーブは一言も理解できなかった。

「アイツらの間を通過しろ!」
彼らはコックピットの左右をバタバタと通り過ぎて行き、私はそのリーダーよりも低く、ナンバー2よりも高い位置を取っていた。彼らは50ヤードほどしか離れておらず、地面から100フィートほどの高さにいた。私が彼らと擦れ違ったとき、私は右に強く引っ張って、少し機首を上げて、彼らがまだ左に行って再び旋回して目標に辿り着こうとすることを期待していた。私は右肩の向こうに首を伸ばしたが、彼らは現れなかった。その代わりに、スティーブが地平線を横切って西に向かって追いかけているのが見えた。
私の鼓動は突然跳ね上がった。アイツらはここに残って戦うつもりだ! 方向を変えなければ。

彼らは逆方向に旋回したが、それは戦闘のためではなかった! 彼らは帰還のために飛行していたが、スティーブには気付いていなかった。それは彼が6時方向になるように旋回していたためだ。シーハリアーの翼の下からスティーブの最初のミサイルが発射された。
それはミラージュの尾翼の上を回り込み、特徴的な白い煙の痕跡を残して、コックピットの後ろにある機体のスパインに命中した。パイロットはそれが来るのを見ていたに違いない。ミサイルが命中する前にキャノピーを捨てていたのだ。そして、彼は脱出した。デルタ翼の戦闘爆撃機の後ろ半分は、機体が爆発する前に大炎上して消えてしまった。

私はスティーブの後方を確認したが、彼が私の6時の方向を確認するには彼は忙しすぎた。そうでなければ、彼は3機目ののミラージュが私の背後に迫っているのを見ていただろう。
スティーブは照準を合わせた2機目を追いかけることに集中し、2発目のサイドワインダーを放った。そのミサイルは、西の聖域に向かってアフターバーナー全開で激しく加速している標的を長く追いかけていった。ミサイルが燃え尽きる頃、ミラージュは雲のために引き起こしを始めた。白い死を招く点は戦闘爆撃機を追い続け、その機体と共に雲の中に入っていった。私には、その翼の下にミサイルの近接導火線があるのがはっきりと見えた。それは驚くべき光景だった。

アドレナリンが最高潮に達していた私は、空を見回してみた。緑と茶色の美しい迷彩を纏った3機目のダガーが、右側の真下にチラリと見えた。私は、その機体に向けて右下方にブレークし、サイドワインダーでジェット排気を捉え、ミサイルを発射した。それは非常に速い時間で目標に到達し、ダガーは炎の玉の中に消えた。

炎の球の外に、機体の壊れた破片が飛散した。そのうちのいくつかは、地面に沿って回転してから止まり、最早航空機の部品とは判らなくなった。
この空中での交戦はおよそ1分ほど続き、それは信じられないほどの速さの出来事だったのだが、私の中では、それは壮大なスローモーションのように記憶されている。

後日、3機目のミラージュ・ダガーは、私を視認して、北側から空戦に参加したということを知った。彼は西と基地の方へ旋回し、私に向けて機関砲を発射していたが失敗していた。これは私が経験した中で、最も紙一重の瞬間だった。

我々は有視界で互いを確認し、ペアになって戦闘空中哨戒の任務を続けることに、根拠のない高揚感を感じていた。我々は短い交戦の間、数マイル西に移動していたが、正しい哨戒位置に戻るために、数秒間東側で待機していた。そこから10マイルほど離れた丘の裏手、サン・カルロスの方を見ていると、前方の日差しの中に3羽のカモメがいるのに気がついた。カモメだって?

私は「この近くに友軍はいるのか?」と、ブリリアント(*5)に尋ねた。
「待て!」いつもより鋭い返信があった。

(*5) HMS Brilliant (F90)。フリゲート艦。

その1秒か2秒後、ブリリアントから再び入電した。
「すまん。ミラージュに襲撃された! 作戦室に被弾した! 向かいのヤツが怪我をしていて、私も腕を殴られているような感じだ。付近に友軍はいない」

この冷静な管制士官はレオン・ハルムで、彼は火災の下での並々ならぬ活躍によって、後に表彰されることになる。(4機目のミラージュが居たんだ! あそこから逃げたヤツだ!)

再びフルパワーにする。「スティーブ、あれはカモメじゃない。スカイホークだ!」
白い鳥のように見えていたものが、実は標的を選ぶために一時待機していた攻撃機だったのだ。私が話している間に、三羽の『カモメ』は旋回を止め、南に向かい、連なった丘の奥に降下していった。そして、私の朝のフライトから、彼らの行き先が判った。

「ヤツらはアーデントに向かっている!」
私は南東に向かい、ポート・ハワードの集落上空100フィートを600ノット以上で通過した。

あっという間に左手の丘のラインを通過すると、突然入江の海上に出た。その前方と左手にはスカイホークがいた。右側には被弾したアーデントがいた。サン・カルロスへの進路を拓こうとしていた彼女は狼煙ののように煙を上げていた。私は間に合わなかったが、ハーミーズからレッド小隊が対岸でCAPしているはずだった。

「レッド小隊! スカイホーク3機が北から南へアーデントに向かっている! 自分は西の射程外だ!」

通信を受信したレッド小隊は、まるで魔法のように現れ、入江の対岸の上の高台から降下してきた。私はサイドワインダーの噴煙と、後続のA4が爆発するのを見た。その後、真ん中の機体が爆発し(後から聞いたところによると、機関砲による撃墜だったそうだ)、3機目は機体でマストを切り取るように見える前にアーデントに爆弾を落としていた。

私は僚機がどこに行ったのか、周りを見渡してみた。「スティーブ、どこだ?」彼は縦列で戦闘態勢をとっていたはずだ。返事がない。
心臓が止まったような気がした。答えは一つだけ、彼は撃墜されたに違いない!

私はブリリアントを呼び出した。
「自分の僚機を対空砲火で失ったようだ。CAPの位置に戻って、有視界捜索する」
気分が悪かった。有視界捜索では何も見つらけれなかった。しかし、私はパイロットのSARBEが救助信号を伝える音を聞いた。スティーブかもしれない。
「ブリリアント、自分は領域の位置を特定できないが、SARBEの信号を拾った。彼かミラージュのパイロットのものだと思われる。確認のためにヘリコプターを遣ってくれないか? 自分は燃料が足りないので、すぐ母艦に戻らなければならない」

高いところまで上昇すると、私は限りなく落ち込んでしまった。スティーブを失ったのは、自分にとって本当にショックだった。80マイル飛行したところで、母艦を呼び出した。

「燃料が不足している。フォークランド西方で僚機を失ったようだ。巡航降下を開始する」

「了解、隊長。燃料不足を確認しました。あなたの僚機は着陸したようです。彼は被弾しましたが無事です。送る」

「了解、マザー。良い報せだ。以上」

60マイルの位置にインヴィンシブルをはっきりと確認した。彼女はスピードボートのように大きな泡のような航跡を残しながら、私に向かって水の中を矢のように進んでいた。JJのために! 彼は数ポンドの燃料のためだけに艦載機を失いたくなかったのだ。

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