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2021/05/05

タービントラック戦争: フォードとシボレーのジェット・エイジのセミトレーラー・トラック開発競争

The Turbine Truck Wars: Inside Ford and Chevy's Jet Age Battle for a Better Semi-Truck
Sixty years ago, Ford and Chevy's endless truck wars were a lot cooler.

1960年代、色々なものが「未来の」自動車の技術として試されたものの中には、あるものは時代の徒花として消え、人々の記憶から消えてしまったものが沢山ありました。
上記のリンク先で取り上げられているフォードとシボレーのガスタービンを動力とするセミトレーラー・トラックも、そんなものの一つ。

記事内でも触れられていますが、シボレーの『ターボ・タイタン』が博物館に納められ、資料も残っているの対し、フォードの『ビッグ・レッド』は1970年代に忽然とその姿を消してしまいます。
著者のPeter Holdrith氏は、その行方を根気よく探し続け、遂にそれを見つけることになりますが、この記事はそこに到るまでの序章といえるもの。

その過程が面白いので、一連のタービントラック関連の記事を訳して置いてきたいと思います。

まずは、その第1弾。フォードとシボレーのタービントラックの誕生から消長までの概説をどうぞ。

タービントラック戦争: フォードとシボレーのジェット・エイジのセミトレーラー・トラック開発競争
60年前、フォードとシボレーの終わりなきトラック戦争は、かなりイケてた

アメリカの自動車の物語は、快適さを追い求める物語でもある。
快適なシート、しなやかなサスペンション、そして今では、車は自動化の度合いを増してきている。
パワートレインも進化を遂げてきており、往復式で騒々しい音を立てていた内燃機関は、電気モーターの助けを借りずに、どんどんに静かになってきている。
しかし、より静かで洗練された出力の伝達を求めるのであれば、別の選択肢がある。
それがガスタービンだ。今ではいかれているように思えるが、それは50年以上前にはより高度な車になると信じられていたのだ。

それよりも、その技術が最も魅力的で、かつ不透明なフォードとシボレーの終わりなきトラック戦争の最前線の幕を開けることになった。それが、1960年代のタービン動力セミトレーラー・トラックを最初に実用化する競争だ。
我が国における州間高速道路網の急速な拡大はそれに拍車をかけた。フォードとシボレーが作った光り輝くコンセプトは、驚くほどのパワーと耐久性、そして効率でトラック輸送を革新することを約束した。
紙の上では、タービンエンジンは未来的にみえた。では、何が起きたのか?

自動車用ガスタービンの物語が実際に始まったのはアメリカ合衆国ではなかった。
1950年のイギリスでローバーJET1によって、それは始まった。第2次世界大戦の終結後の1946年に、その取り組みは始まっていた。
ローバーは、それに挑戦するユニークな立場にあった。それは、1930年代に高名な技術者フランク・ホイットルによって設計された最初の実用ターボジェットエンジンの生産に関与していたのだ。

しかし、アメリカもすぐにそれに追いついた。
アメリカ本土の自動車メーカーも、ジェット動力で路上を走る車両のホイールを駆動するポテンシャルに注目した。
その優勢性ははっきりしているように思えた。ジェットタービンは全ての速度域でスムーズで、ムービングパーツも少なく、複数の種類の燃料で動かすことが出来る。そして寒冷地でも簡単に始動して、ピストンエンジンよりも燃料消費も勝っていると考えられた。
それに加えてシンプルで、より柔軟なパワートレインは、長距離走行においては、より信頼性が高く、安く運用できるように思われた。
夢中にならずにおられようか?

フォードとシボレーのタービン・セミトレーラー・トラック時代

クライスラーの有名な取り組みにもかかわらず、実用的なタービン動力の乗用車は、タービンエンジンを作るための部品が高価なことから、第2次世界大戦後すぐには実現が困難だと証明されていた。
しかし、アメリカの新しいハイウェイで走り続けるために大量生産する車両の設計で、先行投資した費用が相殺されるならばどうだろうか?
フォードとゼネラルモーターズのタービンの開発は転機を迎えた。彼らは共に大きな決断を下した。

皆さんはおそらくタービンエンジンは、その非常に高い運転回転数からセミトレーラー・トラックに向いていないと考えるだろう。そして、我々が知っている通り、燃料消費率の悪さもある。
しかし、タービンエンジンを安価な燃料を使えるように出来れば、安く、静かで、どんなディーゼルエンジンよりも大変にスムーズ運転できる高トルクのエンジンが得られる。結局のところ、これは理論上の話だ。

フォードとGMの両社は、それぞれ1940年代末期にタービンエンジンの開発に数年を費やし始めた。
そして、'60年代も半ばを迎えた頃、フォードはビッグ・レッドと呼ばれる巨大で走るプロトタイプを、トラックの分野で初めて発表した。

フォード・ビッグ・レッド

新型フォード・マスタングと共に、1964年の世界博覧会でお披露目されたビッグ・レッドは、その名の通り巨大だった。
高さ13フィート (約4m)、長さ96フィート (約29m)のそれはランド・トレインではなかったが、それは今では180,000ポンド (約90t) の総重量を持つ路上を走っているほとんどのセミトレーラー・トラックよりも確実に長く、重かった。
巨大な連結式トレーラーを、巡航速度 70mph (約112km/h) で牽引するために、フォードが705と呼ぶ600馬力、955フィート・ポンド (約1,295Nm。約132kg-m)のタービンエンジンを搭載し、タンデム式の駆動軸を駆動するためにアリソンの5速自動変速機を組み合わせていた。

705は、元々は戦車や掃海艇、および小型艦艇といったものに適したパワープラントとしてアメリカ軍のために開発されたものだったが、ビッグ・レッドに使うのにも適していた。
では、なぜビッグ・レッドが最優先とされたのだろうか。
人々は勿論、このトラックが大衆に向けた軍事プロジェクトの面を宣伝する目的を持っていたという事実にほとんど完全に気付いていなかった。

しかし、宣伝用のトラックだからといって、フォードが大量生産する場合と比べて、デザインや機能が劣っているというわけではなかった。
印象的なエンジニアリングは、このトラックのタービンエンジンだけではなかった。
エアサスペンションを装備した最初のセミトレーラー・トラックの1つであり、サスペンション付きのキャブも、その種のものでは初めてのものだった。

機械的な新機軸以上に、インテリアも非常に興味深いものだった。
ビッグ・レッドは長距離貨物輸送を目的としており、2名の乗員をサポートするようにデザインされていた。
大食らいのタービンエンジンは、280ガロン (約1,060リットル) の燃料タンクに繋がれ、600マイル (約960km) の航続距離を確保していた。

ドライバーの疲労を避け、移動時間を改善するために、ビッグ・レッドは飲料のディスペンサー、冷蔵庫や、温め用のオーブンまで完備したキッチンを備えていた。そして焼却炉式のトイレもあった。
1名がドライブ中に、もう1人は中でのんびりと過ごしたり、仮眠したり、助手席のみから見えるTVを観ることも出来た。

 

フォードはビッグ・レッドで、ボストン、フィラデルフィア、ワシントンDC、ダラス、シカゴ、デンバー、オクラホマシティ、そしてロサンゼルスといった主要都市を訪問する国内ツアーに出た。
フォードはタービントラックこそ未来であると売り込み、広告でも最新のフォード・マスタングの隣に置くほどで、熱狂した対象はそれを支持していた。
そして、このような巨大なトランスポーターたちが、この国の出来たてほやほやの高速道路を突進するのも間もなくであるかのように感じられたものだ。

勿論、そうはならなかった。
フォードは、タービントラックと1970年代へ向けたアイディアの実験を継続することについて、外見上は楽天的であったが、この自動車メーカーはビッグ・レッドプロジェクトは、成功の見込みのないタービンカーと同様にコストと効率の問題のために生産へ移行不能であることを知っていた。
そして、全国縦断宣伝ツアーが終わった後には、プロトタイプを使う気もなかった。

ほとんどの用済みとなったコンセプトは、その当時は解体されるか、破壊されることになっていた。
しかし、はっきりとしない一連の出来事の結果、ビッグ・レッドは、1960年代末期にフォードがファクトリーサポートしていたレーシングチームであったホルマン・ムーディーの手に渡ることになる。
この写真は、少なくとも1978年の在庫一掃セールで売られる10年ほど後には、ノースキャロライナ州にあるホルマン・ムーディーの倉庫に駐まっていたことを示している。
その後は何もない。ビッグ・レッドは完全に消えてしまった。

その時代に失敗に終わったクライスラーのタービンカーに最近は関心が集まっており、ジェイ・レノのコレクションやペーターセン・ミュージアムの常設展示、本や数々のブログで姿を見かけることができる。
そんなこともあって、1度はフォードの破壊の手を免れたビッグ・レッドのように非常に目立ち、完全に機能するジェット機時代初期のプロトタイプの長ったらしい記録が残っているのではないかと、皆さんは考えるだろう。
悲しいかな、そんなことはないのだ。
ホルマン・ムーディーにもフォードにも、何が起こったか記録は残っていないのだ。
ホルマン・ムーディーからは、度重なる問い合わせに対する回答を得られていない。フォードは我々に写真送ってきて、リー・ホルマンに聞いて欲しいというだけだった。
「もしあなたがそれを見つけたら、私はそのプロジェクトの概要について喜んでお話ししましょう」と、広報担当者は言っている。

結局、破壊されてしまったのだろうか? それとも不正な方法で転売されたのか? 部品取りにされたのか? あるいは誰かのガレージにしまい込まれているのか?
ビッグ・レッドの現在の行方は分からない。
しかし克明な調査の後、それは2020年現在確実に生き延びていると私は確信している。北カリフォルニアの倉庫の中に隠されている可能性があるのだ。
私のビッグ・レッド探しの物語は、こちらをご覧いただきたい。

シボレーのターボ・タイタンIII

ディアボーンのライバルから、コンセプトカーが登場するとは、誰も気にかけてはいなかった。GMも同社のガスタービン計画の開発に忙しかったのだ。
1964年に同社初のセミトレーラー・トラックのコンセプトカーが登場するまでに、GMのエンジンは9世代目になっていた。それがGT-309だ。
バイソンと呼ばれたその見た目は...そう、こんな感じだった。

シド・ミードのイラストレーションから抜け出してきたようなバイソンは、少なくとも1基のGM製GT-309タービンエンジンが、キャブの上にある流線型のポッドの中に鎮座していており、それを動力にしていた。
内蔵されたそのパワープラントは『ホワールファイア (Whirlfire)・ターボ・パワー・エンジン』という名前で知られている。なかなかいい名前ではないだろうか。
GT-309は、280馬力と875ポンド-フィート (約121kg-m) のトルクを発生可能だったが、これは出所が判らないタービンエンジンと、おそらくは発電機が組み合わされていたようだ
これはモックアップのコンセプトカーに過ぎなかったため、ドライブトレーンの仕様を知ることはできなかった。

バイソンは以下の点で運がなかった。
a) 同じ世界博覧会で注目を惹こうと競ったのが、ビッグ・レッドと新型フォード・マスタングだったこと。
b) そして実際には動かず、機能しない擬似現実的なプロトタイプだった。
これが自力で動いたかどうかは判らない。
このような詳細が歴史の中に埋もれてしまったのは、実際のところバイソン・プロジェクトは、そのパワートレインではなく当時、GMが推進しようとしていた標準化された輸送用コンテナに焦点を当てたものだったことを反映している。

お気づきかもしれないが、バイソンにはドアがない。
これは、巨大な貝殻のように巨大なウインドシールドを前方に跳ね上げて、2本のジョイスティックの操舵システムを備えた型破りなインテリアから、乗員が乗り降りできるようにしているためだった。
ここには、組み込み式の電話と、流線型の外観に似つかわしい宇宙家族ジェットソンに出てくるようなセンターコンソールもあった。
これは現実離れしているといえるだろう。

ステアリングシステムについては、このストーリーの少し先の方で触れることになるといっておこう。
実は、この2本の手の配置は、当時フォードでも開発されていた。
フォードはこれを『リスト・ツイスト (Wrist-Twist)』と呼んでおり、軽率で性差別的なプロモーションビデオはまだYouTubeで観ることが出来る。これは、女性にもステアリング操作を簡単にできることを第一に意図していたように見える。
フォードは元々実験的なリスト・ツイストを、マーキュリー・パークレーン・コンヴァーティブルに装備していたが、幸いにも、これは製品化には到らなかった。

現実世界のシボレーのターボ・タイタンIIIとは

GMの素晴らしいネーミングセンスを、誰かが取り戻す必要がある。
ターボ・タイタン。この素晴らしい名前を思いついた人達を呼び戻すべきだ。

「ジョージ。ボクは別のイカした単語を『マティック (Matic)』の前に付けるべきだと思うんだ!」
「なんだって?」
「そうだろう!」

それはともかく、1965年のターボ・タイタンIIIは、バイソンとは違って実際に動くトラックだった。GMはこれを1966年の世界博覧会に出品した。記憶にある方は、おそらくそこで観たのだと思う。
これは全米を横断する数度の試験旅行に送り出されたとも伝えられているので、ハイウェイ上で観たことがあるかもしれない。

ターボ・タイタンIIIは、車両総重量76,800ポンド (約38.4t) で、バイソンにも搭載されていたのと同じGT-39を動力とし、280馬力と875 lb-ft (約121kgf-m) の強力なトルクを発揮するとしていた。
このエンジンについて言えば、実際に若干詳しい情報を得ており、それは思っていた以上に興味深いものだった。
トラックの側面に口を開けた巨大な空気取り入れ口が本物であったことを言っておかなくてはならない。

GT-309は、9世代目、かつ最後の世代となるGMのタービンエンジンで、タービンをディーゼルと同等以上にするための最善の試みであった。
エンジンブレーキ、排気温度、そして吸気ノイズを含むタービンの解決すべき問題は、この時点で殆どが解決されていた。
しかし、重要な問題が1つ残っていた。燃費である。

GMの技術者たちは、そこに近付いていった。
実際、ターボ・タイタンの燃費は65 mph (約105km/h) で巡航するディーゼルのセミトレーラー・トラックと同等であったと、SAEは主張していた
しかし、その以外のほとんどの速度域と条件の下では、黒煙を吐き出すディーゼルエンジンには勝てなかった。

タービンのアイドル回転数は約33,000 rpmだったが、改造したアリソンMT-42自動変速機が届けられるまでに、4,000に低減されていた。
6速のMT-42は、トルクコンバーターを持たないことが問題になっていた。
それは、エンジンの出力軸がタービンとコンプレッサーの1段目に固定されていなかったせいだ。
これは、出力タービンそれ自身が一連の流体継手として動作するということを意味している。
出力タービンの出力は、手動でシフトする自動変速機を通じて、7.17:1 と9,77:1 という2つの変速比を持つ直列に繋がれた軸に送られる。

さて、エンジンへの空気はどこからやってくるのだろうか?
そう、トラックのサイドポッド上の2つの巨大な取り入れ口は機能していたのだ。
この取り入れ口は、ドライバーの必要に応じて外側に飛び出すターボ・タイタンのヘッドライトの収容場所にもなっていた。

上の写真では、このトラックにツイスト・リスト型のステアリングが装備されていることに気づくだろう。
GMはこれを『ダイヤル・ステアリング』と呼び、フォードの実験車両にあった小さなユニットよりも、随分と大きかった。
しかし、これらの目的と用途は、ほぼ同じだった。
シボレーは、このような形式のステアリングをターボ・タイタンに採用した本当の理由を表明することはなかった。
しかし、私はこれが当時、流行していただけだという印象を持っている。
特に、未来っぽいタービン・トラックのコンセプトに合っていたのだ。

上の写真では、このトラックにツイスト・リスト型のステアリングが装備されていることに気づくだろう。
GMはこれを『ダイヤル・ステアリング』と呼び、フォードの実験車両にあった小さなユニットよりも、随分と大きかった。
しかし、これらの目的と用途は、ほぼ同じだった。
シボレーは、このような形式のステアリングをターボ・タイタンに採用した本当の理由を表明することはなかった。
しかし、私はこれが当時、流行していただけだという印象を持っている。
特に、未来っぽいタービン・トラックのコンセプトに合っていたのだ。

タービンに何が起こったのか?

ターボ・タイタン・プロジェクトが終わりを迎えてから間もなく、GMのタービントラックは行き詰まってしまった。
しかしフォードは、1971年に707と名付けられた最新のタービンエンジンを生産する工場をトレドに開設するまで、このアイディアの開発を1970年代まで継続した。
375馬力の707は、鉄とニッケル製の1段式ガスタービンで、少なくとも物流業界に要求された燃費を満足させるために圧縮再生器が使われていた。

フォードは、同社の量産型W-1000トラクターを数台707タービンに適合させて、ディアボーンとトレド間の定期供給のために、これを数年間運用した。
遂にトラック輸送の未来を手にしたのように見えた。
しかし、ヘミングス・モーター・ニュースが書いている通り、最終的に冷却と生産コストの問題が、フォードにこのアイディアを諦めさせ、1971年に工場を閉鎖させることになった。

707は先進的ではあったが、タービントラック全体を死に到らせた、2つの大きな問題の餌食となった。
その1つ目が、驚くほどの量の有害物質をガスタービンが排出することだった。特に窒素酸化物が多かった。
1970年の大気汚染防止法は、厳しすぎるほどに抜かりなくそれらの排出物を規制していた。そして1960年代半ばのイケイケの未来志向は後席に回され、その後の不安定な時代の舵取りをすることになる。

2つ目は燃料の経済性の問題だ。ついぞこれを克服することは出来なかった。
実際のところタービンエンジンは、どんな可燃性の液体であっても、大食らいの機械だったのだ。
静粛性に信頼性、そして滑らかな出力の放出は、それを大型トラックに搭載するのに十分な理由で、実用性能も当時のディーゼルに比肩するものだった。

それを実用的な車両に搭載して、そのコストを相殺する収益を上げられたとしても、タービンを製造するのは依然として非常に高価で、1分あたり35,000回もの回転を安全に行うための製造基準が必要だった。

2つの超巨大企業は、互いに仕上げた武器で一騎打ちしなければならないことに気付いた。
フォードとシボレーは、完璧なタービントラックを追い求めることを断念し、その後20年に渡って0.5トンのペイロードと牽引能力について言い争いをすることになる。
他のほとんどの大型トラックメーカーも、1度や2度はタービン動力のコンセプトを試していた。
しかし、それらのトラックは普通のスタイルのキャブに実験的エンジンを載せただけのものだった。
ビッグ・レッドとターボ・タイタンは、未来を垣間見ることを完全に実現していた。

いくつかの会社は、通常は電気モーターと並行しながら、タービンエンジンを装輪車両に搭載する試みを続けている。
しかし、これまでにないほど厳しい排出物規制と、電動パワートレインの絶え間ない進歩によって、私たちが将来タービンカーに乗り込むことは、非常に難しくなってきている。
トラックもそうなのだ。残念ながら。

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