群ようこ『還暦着物日記』
題名そのままの本である。
着物を着て日常(でもない部分も含まれるけれど)を過ごしなが、考えたこと、感じたことなどを日記形式でまとめた本である。
自分は服装とかファッションというものには疎いのだが、この本で紹介されている着物の諸々を読んで、いかに自分が着物について無知であるかを改めて思い知らされた。
特に写真で紹介されている着物や帯の趣味のよさは分かるのだが、それがどの季節のものなのか、どのようなときに着るべきものなのかさっぱりわからない。
日常的に着物に触れる機会が少ないので仕方ないといえばそれまでだが、既に手遅れかもしれないが多少知識は持っていた方が良かったのかなとも思う。
着物の素晴らしさが語られているのはもちろんだが、現代の日本において着物を着て日常を過ごすことの大変さとか悩みもよくわかる。
この本を読んで太平洋戦争後も和装離れが起こらず日常生活と乖離せずにいることが出来ていれば、日常的に無理なく身に着けることができるものに変わっていたのだろうかなどといったことも、ちょっとだけ考えさせられた。
途中、背後から子供がお母さんに、 「ねえ、今日はどこかでお祭り? 花火大会があるの?」
と聞いているのが耳に入った。
「お祭りじゃなくても浴衣は着るのよ。そんな大きな声でいわないの」
着物を着ていると、一年に何回、お祭りはどこといわれるのだろう。逆に楽しみになってきた。
昔、出版社に着物好きな男性社員がいて、仕事始めだったか忘年会だったかに、対の着物を着ていた。 何もわからない他の男性社員が知ったかぶりをして、 「いい浴衣着てるね」
といったら、彼が、
「何いってるんだ、これは結城だぞ」
と激怒したという話を聞いた。興味のない人にとっては、浴衣も着物も、木綿も絹も同じなのである。
着物好きの友だちとその話をして、
「いいね、だけにしておけばよかったのに」
と双方が気の毒になった。そしてどちらかというと、浴衣といった男性よりも、結城だと怒った男性のほうが嫌だという意見で一致した。 無知よりも高慢のほうが問題である。(P114)
なかなかに耳の痛い話である。
繰り返しだが自分も含めて、それだけ着物が日常のものではなくなっているということを表すエピソードではある。しかし逆にいうと誰が何時何を着るのかという自由にどこかでタガをはめているということかもしれない。
確かにTPOに合わせた装いというものはあるが、自分とその周辺の生活であまり目にしないものについての許容度というか、受容性のようなものを試されているような気もした。
巻末には『向田邦子の着物』と題して著者が愛する向田邦子の作品に登場する着物について、記された文章がまとめられており、こちらもなかなか楽しめる。
個人的に面白いと思ったのが、以下のくだり。
長男周平の友だちが、家に麻雀をしに来た(十四話)。そのなかにお対の着物を着た 青年がいて、姑のきんはすかさず袖を触る。昔はそうやって生地の質を調べ、他人の着物を値踏みする人がいた。
「里子さん、見た、今のすごい結城だねえ」
ときんはささやく。
「私もどきっとしちゃって。ちょっと今時ないですね」
「疋で五十万は超えてるよ」
「どういうおうちの子かしら」
二人は彼の素性について興味津々なのだが、浅草の置屋の息子とわかって、
「どうりでいいものを着てると思った」 と納得する。 「らしく」ない着物を着ている人に出会うと、あれこれ詮索する楽しみ もあったのである。元々、衣装というのはその時代、折々の風俗をよく表し、
それを身に着けている人物の人となりとか背景をも曝け出すことがあるというのは、
よくいわれることである。
着物というのは、その性格が強く表れるものだが、それを改めて思い出させてくれる
くだりであった。
(P204)
衣装はその時代、折々の風俗をよく表し、それを身に着ける人物の人となりとか背景をも曝け出すことがあるというのは、よくいわれることである。着物というのは、その性格が強く表れるものだが、それを改めて思い出させてくれるくだりであった。
全体を通して扱っているものがものだけに、そこからちょっとしたスノビズムを感じる向きもあるかもしれない。しかし全体的には軽いエッセイ仕立てなので着物好きの方も、それほどではない方も、読んでみて損はないといえる。
少なくとも、自分にとっては色々な気づきがあった本ではある。
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