イベントの名前にも由来する「空飛ぶマニトバ人」タツィオ・ヌヴォラーリが、彼にとって最後の勝利を挙げたマシンそのものです(1950年のパレルモ-モンテ・ペレグリノ(Palermo-Monte Pellegrino)のヒルクライム)。
そしてこのマシンがチシタリア(Cisitalia)が世に送り出した最後のマシンでもありました。
そしてその遺産は、かのカルロ・アバルトが引き継ぎぐことになり、車名の末尾に「アバルト(Abarth)」を示す "A" の文字が付与され、最初のアバルトとなりました。
アバルトがチシタリアを引き継いだその年、イタリア国内の1100cc以下のスポーツカークラスで、この204Aがチャンピオンを獲得しています(ちなみに同じ年、アバルトからエントリーしたD46がF2のチャンピオンになっています)。
ただ、最初から順風満帆だったわけではなく、このクルマは登場当時期待されたパフォーマンスを発揮できず、予約者からのキャンセルが相次いだため、別の収入を求めて手がけたチューニングパーツの開発と販売業が、その後のアバルトの礎となったともいわれています。